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  • 2016/11/22 23:57

    僕の声のこと。


    ―――――――――――

    『グラデーションボイスの詩』


    僕の発した口疾でくぐもる曖昧な波

    溶けて流れるアイスクリームのよう

    言葉の輪郭は不明瞭


    100cm向こうの聴覚に届く頃

    音声から声は抜け落ちただの音


    「what?」

    これが多くの返答

    the end


    ―――――――――――




    滑 舌 が 悪 い


    乗っけから、いくら詩的に書こうが要はそういうことである。

    僕の滑舌は芳しくない。

    基本的には口腔内の筋肉構造なのではないかと思う。

    ハキハキ大きな声で話せる人はそのように筋肉が発達しているのだろう。

    我々のようなタイプは逆にその筋力がやや未熟なのかもしれない。

    ハキハキ話してと言われることが多いのだが、

    みんなが歩いている中で早歩きを強要されるような居心地の悪さを覚えたりもする。

    と言うよりも姿勢良く歩きなさいと指摘される感じか。

    いい姿勢の人はハキハキしてる気がする。

    谷 いい姿勢である

    https://youtu.be/etczMOjRAPM?t=142


    僕ときたら確かに姿勢も悪いし、僕の声はいかんせん不明瞭である。

    上でも書いたように発声するために必要な筋肉が未発達で、

    例えば「あ」と「は」は発声法が似ているために、その音の領域が不明瞭になってしまうのではないだろうか。

    そして不明瞭とは言い換えたらグラデーションとなる。

    だから僕の声はグラデーションボイスと言えるわけで、

    なんだか個性派のボーカリストになった気さえする。

    うふ。      


    edalab.

    new album『flower in mouse’s mouth』



     E・Adam「ヒュー!やられたよ!

    #6 『flower days』はマストだね。

    とんでもなく華のあるコントラストの強いサウンド。

    それでいて前田は何歌ってるかさっぱりだよ、ありゃイかれてる!

    すげーグラデーションボイスだよ、ありえないね。

    その対比的なサウンドメイキングが今作のハイライトさ。

     俺が保証するよ!何だったらお袋の思い出のロケットを賭けたっていいぜ」

    (レビュー:元 Yves Drogba ベーシスト E・Adam)


    などと訳のわからぬレビューさえ嬉々として書けちゃうくらいである。

    だけれども、書きたいのは以下のことなのだ。


    花の名前とグラデーションボイス


    職業柄、花の名をよく尋ねられたり、伝えたりすることが多い。

    しかし往々にして聞き返される。

    なぜならば、多くの花の名前が聞き慣れない文字の羅列だからであり

    そこにグラデーションボイスで発せらた

    ポリポジウム

    ポリゴナタム

    デルフィニウム

    リューカデンドロン

    リューココリーネ

    などを誰が一度で記憶できるだろう。


    そのグラデーションボイスで例えばリューカデンドロンと言ってみるとユーカゼンドロと伝わる。

    その訂正と確認のためにこのようなやり取りが始まる。


    客「ユーカゼンドロ?」

    前「あ、えっとデンドロンです」

    客「ゼンドロン?」

    前「デです、デ」

    客「ゲ?ゼ?」

    前「デ、デです」

    客「デンドロン?」

    前「そうです、リューカデンドロン」

    客「ユーカデンドロンね」

    前「あ、リ、リュです」

    客「あぁうん難しいし覚えられないわ…」

    前「そうですね…」


    もはや一つの惨劇である。


    むしろこの声のせいで間違えた名前で覚えてしまうくらいなら

    もういっそ忘れてもらった方がその人のためにもなる。


    こうしたやりとりで心が折れそうになることもしばしば。

    それは言葉に鮮度が存在しているからだと思う。


    言葉の鮮度


    例えば以下のような状況では言葉の鮮度がより大事になる


    ーーーーーー


    大量生産大量消費を掲げるハンバーガー工場にて。


    ある忙しい昼。

    厨房に響き渡る小男宮下の叫び。


    小男「前田さん、パティ全然足りないじゃないですか!!

    何やってるんですか、早くしてください!!

    前田「資本主義か!!」

    小男「そんなこと今は関係ないでしょ!!変わって下さい!!」

    前田「いや、ど真ん中…」


    お互いの魂の叫びがぶつかり合う瞬間である。

    もしこれがグラデーションボイスだった場合


    小男「前田さん、パティ全然足りないじゃないですか!!

    何やってるんですか、早くしてください!!

    前田「にほんしょきか!!」

    小男「日本書紀?そんなこと今は関係ないでしょ!!」

    前田「あ、いや、きほんしゅみ…」

    小男「基本、趣味って、ふざけないでください!!変わって下さい!!」


    ーーーーーー


    天照大神がビーフパティを焼く伝説などない以上、間違いなく小男宮下が正しいし、

    前田も趣味でビーフパティを焼きたくはないだろう。

    そのあとでいくら明瞭に資本主義と叫んだところで後の祭りで、

    The capitalism was gone away…

    もはや資本主義と叫べるチャンスは行ってしまったのである。


    グラデーションボイスから発せられた言葉は聞き返されることで鮮度を失い、バツの悪い思いをすることになる。

    そう、心が折れそうになる原因はここにあるのだ。

    日々、繰り返されることで、行き場をなくした言葉たちは心の中で落葉し、すぐに腐敗する。

    やがて腐葉土を形成し、コミュニケーション能力の根を蝕み、新たに芽生えるのは過度の自意識である。

    頭の中では言葉が渦巻いているのに言葉に発する勇気が失われていき、腐葉土が拡大していく。

    そんな辛い悪循環に陥ってしまう。


    ここで思い出されるのが以下の三島由紀夫『金閣寺』の一文。


    ーーーーーー

    吃りが最初の音を発するために焦りに焦っているあいだ、

    彼は内界の濃密な餅から身を引き離そうとじたばたしている小鳥にも似ている。

    やっと身を引き離したときにはもう遅い。

    なるほど外界の現実は私がじたばたしているあいだ、手を休めて待っていてくれるようにも思われる場合もある。

    しかし待ってくれている現実はもう新鮮な現実ではない。

    私が手間をかけてやっと外界に達してみても、いつもそこには、瞬間に変色し、ずれてしまった、そうしてそれだけが私のふさわしく思われる鮮度の落ちた現実、半ば腐臭を放つ現実が横たわっているばかりであった。

    『金閣寺』 新潮文庫 7~8Pより


    *ちなみにこの引用は音声機能を用いて入力したものを手入力で修正しまくったものである。

    ーーーーーー


    でもまあ内向的な愚痴ばかりこぼしていても仕方ないので、

    吃音をうまく利用した人もいる事実に励まされようかと思う。

    日本ではプッチンプリンの曲で有名なスキャットマン・ジョンである。

    彼は吃音という言語障害を受け入れ、唯一無二のボーカルスタイルで一世を風靡した。

    すげぇですよ。

    なので、いつか僕もボーカルデビューする日が来たならば、

    グラデーションボイスを売りにしようと思う。

    でも人気絶頂の中、グラデーションボイスに対する葛藤とか信念みたいなものの狭間でスランプに落ち込んでいくけど、やっぱり僕にはこの声しかないのだと気付き、復活のグラストンベリーのヘッドライナーとか飾って、なんやかんやでグラミーの最優秀ポップボーカルアルバム賞を獲得するみたいなアレですよ。

    でも、このまま書き続けるとまた元 Yves Drogba ベーシスト E・Adamがレビューを書き始める勢いですし、

    もはや何を言っているのか全く分からないので

    ここはひとつグラデーションボイスに免じていただければ


    おわり