2016/11/01 10:35
【モンドリアンはいつも正しい】
最初期の抽象画家で、黒いフレームと空白、赤青黄の三原色を配置した絵が有名。
街中でそれモンドリやん?みたいなモチーフのデザインをちらほらみかける。
カンディンスキーとの比較
同時期の抽象画家のカンディンスキーはふわりと自由な描線と色調でなんかを示唆しているようにも感じ取れる。
カンディンさんはクラシック音楽聴きながら即興で描いたりしてるから、なんか表現的なのですね。なんか醸し出ている気がしませんか。なんか。
だから『熱い抽象』と呼ばれているらしい。
正しい配置っ…!
それに対してモンドリアンは平面的に黒いフレームと三原色が描かれている以上の意味はない。
「ここに赤があって、黒に区切られて、左下に青があります。
意味?ないですよ。この配置です。それ以外に何もないですよ」
と。
もし、仮に配置に違和感があったり塗りムラとがあったすると、何かわざとかな?とかここの歪みは何かを意味しているのでは?
などと言った余計なことを思い巡らせてしまうわけで、そうなると幾分表現じみてきてしまう。
そういった感情を引き起こさないというのはつまり正しい配置なのだと思います。
この正しさは『最強伝説黒沢』の中根の走り方に比肩する。
ぐうの音も出ない正しいフォーム。
これに追いかけられたらフォームそっちのけでこっちはもう逃げるしかない。
だからモンドリアンの正論的な絵画も反論の余地がないのでこっちはもう頷くしかない。
それゆえ理知的で『冷たい抽象』とも呼ばれている。
そのフレームってやつ
僕はついフレームにとらわれてしまう質で、小さい頃の塗り絵に興じる際、輪郭線から色が飛び出すのは随分と悪のように感じていた(その割に性格は大雑把なのだけど)。
兄によってぞんざいに塗られた悟空ときっちり塗られたぼくのフリーザではどちらが悪だろうかと思案することさえありました。
カンディンスキーもその辺りがラフなのでオブジェクトの領海侵犯みたいな描線にぞっとする反面、少し羨ましくもあるんです。
やっぱり、その点モンドリアンはきちっとしてるから安心する。
僕の作る花も割と輪郭がきちっとしてるし、してないと落ち着かない。
でも上記の通りモンドリアンの絵画はとても平面的なので、
花という立体物でアレンジを作る時にグルーピングという技法で真似て平面を用意してもどこか単調になりがちで、少し物足りなさを感じるようになっていった。
*2013.03 作成
そのあたりを逸脱する方法を僕はバーネット・ニューマンから学んだ。
でもニューマンの話は別の機会に。
ニューマンに出会うまでは「これじゃモンドリアンの後塵を拝しただけの花だな 」なんて弱気になった時期もあったけれど、でもやっぱりモンドリアンはいつも正しい。
*コンポジション
以前イタリアを訪れたときに、現地の人と話をしてて、ぼくが花の仕事していると言った際に「花の仕事ね。造園、園芸かコンポジション、どちら?」と聞かれたことがあり、コンポジションってなんぞや?ってなって意味を調べた後に、モンドリアンの画題にもよくコンポジションとつけられていて、欧米ではフラワーアレンジメントもモンドリアンと同じ属性なのかと、したり顔になったことを最後にお伝えしておきます。
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*コンポジション~composition
「構造、組立」を意味する言葉であるが、美術用語としては「構図」とされる。語源はラテン語の「構造(Compositio)」。コンポジションという言葉自体、絵画はもちろん文学、建築、音楽などさまざまな芸術で使用されるが、「構図」という意味でコンポジションを捉える場合、主に絵画などの平面的造形芸術における画面構成を意味する。美術におけるコンポジションの意味を遡ると、基本的に古代から「組立、組み合わせ」というような意味で認識され、中世以降もさして変化がないが、17世紀頃になると次のように「配置」との同意化がうかがえる。例えばフランシスクス・ユニウスは、1638年に物した『古代人の絵画』において、絵画の五大要素に「色彩」「運動」「着想」「均衡」「配置」を挙げ、その「配置」、「作品全体を秩序づけること」は、古代の絵画におけるコンポシティオ(構造)とほぼ同意で用いられている。このように長い間、コンポジションは、比例や均衡、調和などの美的形式原理に基づくものであり、作品の統一性を支えるものとされてきた。また現代においては抽象絵画においてカンディンスキーなどによって音楽の影響からコンポジションが使用されているが、これは既述の美的形式原理による伝統的なコンポジションの意味合いを含むものではない。